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「戦前」という時代

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いまの時代が「新しい戦前」と形容されているそうですが(徹子の部屋タモリ氏)、昭和の戦前はどんな様子だったのか、山本夏彦のコラムから抜粋してみました。

 

昭和4年(1929年)世界恐慌
昭和6年(1931年)満州事変
昭和8年(1933年)
昭和14年(1939年)ノモンハンで大敗
昭和20年(1945年)敗戦

 

昭和初期

・昭和5年はエログロ最後の年で、当時さまざまなサービスが行われていた。しかし満州事変以降なくなった。景気が良くなったからである
・円タクの運転手は50銭では応じなくなった。

・昭和2〜16年、一流会社の大卒の初任給は60円。給料が上がらないのは会社が物価と月給をスライドさせなかったから。山本が受かったという出版社は35円で、あまりに安いことは採用した編集長の様子から知れた。

 

 昭和四、五年は帝大出の新卒が三割しか就職できなかったころである。だから昭和六年の満州事変は国民に歓迎されたのである。それまでの戦争、日清日露の戦役は共に一年余りで終っている。満州事変もながくは続くまい。景気はよくなると待ったら果たしてよくなって、タキシーは五十銭では乗れなくなった。(中略)

 昭和八年に返りたいと昭和二十年代にはことごとに言ったではないか。昭和八年はデパートに商品はあふれネオン輝きダンスホールは満員の好景気だったからその時代に返りたいと言ったのである。それは昭和十四年まで続いた。十四年はノモンハンで大敗した年であるが、国民はぼんやりとしか知らなかった。

「世は〆切」p62

 

・昭和9年は大凶作で、東北では娘を売る農家が夥しかったという。凶作なら不況だと思いがちだが全体は好況であった。

 

インフレになるぞ、なるぞと新聞は書いたがヤミになってもインフレにはならなかった。なったのは戦後である。
 国が公定価格をきめて配給制を敷くと商品は店頭から姿を消す。店はコネある人だけに売るようになる。それはヤミ値ではあるが公定の三割り増し五割り増しくらいでインフレではない。

「戦前という時代 」p10

 

日記には十五年4月から市中の食堂タイ国産の外米をまぜることを強いられるとある。(中略)
丸の内では白米を食わせる店おもて向きなくなる。

「戦前という時代 」p17

 

昭和15年(1940年)国民服が店頭に飾られた。
>背広を着ていると、非国民のように見られるようになった。

昭和16年

・1月「商店法」改正により料理屋は9時閉店となった。注文は8時半まで。
・5月、東京中のタバコがなくなり配給制に。吸わない人にまで配給されるので譲ってもらうなど。
・9月「田舎町では木炭や薪で車を走らせていると聞く」

▶️ このころ出版社を始めたが実績がないため紙の配給を受け取ることができない。しかし和紙は統制外なので売買自由であり、各社の帳簿用紙で余っているものを集め、50冊を和紙で、2000冊を帳簿用紙で刷り、内務省への献本は和紙のものを渡した。

 

昭和17〜20年

・物資が困窮しても、変わった料理の店に行けば食べ物はあった。
フグ、食用蛙、猪、馬肉屋、どじょう屋など。昭和18年ごろ
隣組の幹部は、油、果物、菓子に困らなかった。

 

本当に食うに困ったのは昭和十九年末の空襲からである。それまでもそれからも東京では千葉に埼玉に買出しに行った。すなわち農家は十分食べて、なお売るものを持っていた。

 昭和十六年十二月八日開戦の朝、七平さんは二階で寝ていた。「おいはじまったぞ。戦争が」とおこされて「えッ、どことどこが」と聞いたという。まさかと思っていたのである。

「世間知らずの高枕」p83

 

昭和17年4月18日、ドウリットルの空襲。このときは焼夷弾はほとんど使われていない(たぶん)
・昭和20年3月10日の空襲、それまでの空襲は高度が高く軍事目標が中心だったが、それ以降は違うと思い秋田に疎開した。

 

秋田では米はあり余っている、米を送ることは禁じられている、餅にして送った。ステッキ状の木箱をつくり、まさか中身は米だと思わないから怪しまれないで執筆者や仲好しの印刷所へ送った。ある所からない所へ送ってどこが悪いと敵の裏をかいて、秘術をつくした。

最も送ったのはむろん母のところである。けれども不思議ではないか、面白ずくでしたことは先方に分るとみえ、感謝されること少かった。

「最後の波の音」p105

 

風俗、流行歌

昭和十年の娘の半ばは洋装をしている。もっともそれは銀座だけ、娘だけで、人妻になると着物に返る。パーマネントはやめましょう(昭和14年)とあったら当時は皆パーマをかけていたのだなと知ることができる。お銚子お一人様三本(昭和16年)とあればそれは表向きで、馴染客は別だろうと察しられる。

「世間知らずの高枕」p85

 

当時の流行歌も紹介されている。

「わたしこのごろへんなのよ」「はあ小唄」「島の娘」「東京音頭」「ねえ小唄」(昭和6〜8年)
「忘れちゃいやよ」「皆さんのぞいちゃいやだわよ」「もしも月給があがったら」(昭和11〜12年)
別れのブルース」「雨のブルース」「上海ブルース」(昭和12〜14年)

ブルースが流行しているということは、まだ当時は
西洋文化=鬼畜米英、ではなかったのだろう。

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その他

戦前の開業医は午前中せいぜい十人の患者をみて、午後は往診して子供を大学へ行かせて食べていかれた。ただし長者番付に出るものは一人もなかった。

「世間知らずの高枕」p97

 

戦前は猥談の時代で、戦後はそれがずいぶん減った(中略)
その全盛期は江戸時代でしょう。ひとまえでするのですからなまなましくてはいけない。自分の話なら失敗でなければいけない。

「意地悪は死なず」p190

 


 

ほとんどの書籍が絶版になっています。山本七平氏との対談本はkindle版があるみたい。
戦前の暮らしについては、コロナ禍での生活様式全体主義の共通点を指摘した「暮らしのファシズム」(大塚英志著)も面白かったです。

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追記(戦後について)

戦後吉田茂はこのぶんでは餓死者が何万人も出ると数字をあげて迫ってマッカーサーから食料を放出させたが餓死者は一人も出なかった。出ないじゃないか、貴下の数字は正しくないと言ったら吉田は正しくないから貴国に負けたのだと笑ったという有名な話がある。

「戦前という時代 」p11

 

1950年 終値102円 6月から朝鮮戦争
1953年 終値378円 7月に停戦
1971年 終値2714円 ドル円=360円の固定相場が崩れる

日経平均株価の年足

戦後の初任給
>戦後間もない1949年は4223円。その後は上昇を続け、1959年に1万円台に。第一次オイルショックが起こった1973年には5万円台になった。

東京では「うどん1杯30円」だった——戦後、25品目の物価はこう変化した(グラフ)【終戦の日】 焼け野原になった日本ですが、戦後は世界有数の経済大国に。復興期の人々はどんな暮らしをしていたのだろう。25品目の物価の推移 www.businessinsider.jp

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